ある日の出来事  

【最期のマチーニ】

先生にはじめてお会いしたのは、もう十年以上前の鎌倉でした

先生は、いつもきちんとした身だしなみでした
身体にあった服、季節感あふれる服、手入れの整った服、磨き上げられた靴
頭の先からつめの先まで、それはそれは、男として見習わなければならない姿でした

先生は、旅のことを教えてくださいました
長い長い取材旅行から帰りたくなったスペインのこと
その理由が女性の容姿が日本人女性に似ているからだとか
それはそれは、男として見習わなければならない話でした

先生は、酒場のことを教えてくださいました
カウンターの中心に自然に座っている姿が今でも目に浮かびます
酒場での会話、振る舞い、飲み方まで、それはそれは、男として見習わなければならない姿でした

先生は、酒のことを教えてくださいました
ウイスキーは、バランタイン十七年を氷小さめの水割りで
カクテルは、マティーニをストレートアップで
それはそれは、男として見習わなければならないこだわりでした

先生は、満九十歳で人生の最期を迎えられました

そのほんの少し前、人生最期のマティーニを作らせていただきました

先生は、男の美学をたくさん教えてくださいました
身だしなみのこと、振る舞いのこと、酒のこと、旅のこと、そして女性のこと
もちろん、スペインにも行ってみました

ひとつひとつ、男として、実行しています

ある夏の日、先生を追悼する大切な夜に鎌倉で「マチーニ」を作らせていただきました
とても光栄でした

「稔君、マチーニ、ね」
先生は、いつもそうおっしゃっていました

初秋に改めてマチーニを想いながら
酒番 栗岩稔

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【X・Y・Zは、これで終わり、のカクテル】

「ホワイトラム、ホワイトキュラソー、レモンジュース」

レシピをつぶやきながら「これで終わりだ」とロシアンルーレットの引き金を引く松田優作が主演

映画「野獣死すべし」

アルファベットの最後の三文字だから、これで終わりというカクテル

今年、喜寿を迎える銀座の婦人

「私の枕元にはX・Y・Zね、よろしく」

明るく話すその言葉に頭を下げるバーテンダー

決してハードボイルドなんかではなく、酒は人生そのもの

人生最期の酒を決められるなんて、なんて幸せでしょうか

しかと約束しました「X・Y・Z」

最高に旨い「X・Y・Z」

最期の酒の約束に深い感謝をもちながら

自身の最期はさておき

今はみなさまの酒が大切です

今は決められません

自身の酒は、いつか、ひとりで考えます

路地裏に 酒と泪と 最期の酒
酒番 栗岩稔

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【10年前と10年後、今の酒】

10年前の鎌倉

銀座で仕事を終えた50代後半の著名な装丁家

ラガブーリン16年を1対1の水割りで立ち飲みカウンターで静かに飲(や)る

葉巻はコイーバ

言葉を必要としないその時間

だまって一杯、調子が良いともう一杯

週末はドライ・マティーニとコイ―バ

いつものように言葉を必要としない、ドライ・マティーニだけの緊張感のある駆け引き

10年後の銀座

その装丁家は突然現れる

1対1.5のラガブーリン16年を2杯

「ようやく見つけましたよ、噂ばかりでさ…、鎌倉にひっそり店を出したとか、銀座で、とか…」

その夜初めて、自らを名乗る記憶という名の大切な名刺を交換

翌日、弟子とともに現われた彼はラガブーリン16年の1対1.5の水割りを2杯

弟子もそれに続く

「今日はさ、俺の一番弟子の祝いなんですよ、洗礼を与える一杯を作ってやってよ」

ジョニーウオーカーベースの「ロブ・ロイ」を差し出すバーテンダー

彼は、初めてみる笑顔とともにドライ・マティーニの注文

そして、ひと口 

「おっ、お前さん、良い年取ったね!何があったか知らないけれど、10年近くになるかな」

「昔は眼光するどくてさ、眼で会話してたよな、眼力っていうのかな」

「旨いね…、もう一杯もらおうか」

2杯目を10年前のドライ・マティーニで差し出すバーテンダー

「おっ、来たね、これこれ、あの切れ味だよ、だけど、これはあそこで飲む味だな」

「よし、あと10年は銀座で遊ぶか、お前さんがここにいるからさ…、1対1.5でな」

「だけど、ホントに良い年とったな、わかるよ、このドライ・マティーニでさ」

深々と頭を下げるバーテンダーの手には次の世代の記憶という名の名刺

1対2の水割りとドライ・マティーニで10年後を想う夜

酒番冥利に尽きる夜

酒番 栗岩稔

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【思い出の香り】

誰もが一度は経験があるはず
スクランブル交差点、並木通り、ホテルのロビーなどなど
いろいろな場所で思い出の香りに出会った瞬間
首がよじれるくらいに振り返り
その瞬間苦笑いしたり、嬉しくなったり、悲しくなったり
思わず追いかけて確かめてみたくなって、確かめた自分に後悔したり
早足でその場から立ち去る自分に気づいたり
そんな経験

香りの記憶、それがすべて香水とは限らない
葉巻、紙巻タバコ、好きなお酒、嫌いなお酒
雨が降る前の空気の香り、雨上がりの木々の香り
誰もが何か一つ香りの記憶がある
いろいろな意味で忘れられない香り、その想いとその瞬間

何年か前のニューヨーク、グランドセントラルステーションのオリーブオイル専門店
二人で買ったincense
その場で箱の角に鼻を押し付け確かめる二人
それをみて笑う店員

「とてもいい香りです‥」
と独り帰国後に届くメールが一通

離れていても共有できる香り、それがたとえ未完成でも
懐かしく、うれしく、そして少しだけ寂しい気持ち
決して良い思い出ばかりではないはずの香りの記憶が
その想いをかき消すくらいの素晴らしい記憶

そういえばアル・パチーノの近年の映画「セントオブウーマン~思い出の香り~」という映画があった
JACK DANIELSをJOHNと呼びながら愛飲する盲目の退役軍人役のアル・パチーノ
自分の人生に悲観的で、酒をあおり葉巻をふかし、それをもみ消す姿
同居している家族にも心を閉ざす初老の男
ある日、そんな孤独な男のもとに身の回りの世話をするために若い学生がアルバイトに来る
死に対する願望が人一倍強い老人と衝突しアルバイトを投げ出したくなる若い学生
しかし、時とともに二人は次第に打ち解けてゆくそんなある日
人生最期の旅として滞在していたニューヨークのプラザホテルのグランドロビー
そこで出会った思い出の香りをまとう女性
盲目の筈の彼が軽やかに踊るタンゴ
一瞬の内に儚い恋に落ちる二人

あらかじめ学生にロビーのサイズを確かめておくあたりが心憎い初老の男は
また思い出の香りを街の中に探しつづけ、歩きつづける

あなたの思い出の香りは何ですか?

酒場で香りを感じた初夏の雨の日に

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【失恋のマンハッタン】

暑い夏の日の午後3時30分 海辺の街のとあるバーカウンター
足が少し不自由な80歳くらいの老人と孫娘と言ってもおかしくないほどの女性
何かのサークルの帰りか、それとも本当に肉親か、そんな詮索はさておき

「ご注文は?」と冷静に少しやさしくたずねるバーテンダー
「マンハッタンを少し甘めで」
老人は鼻に掛かった眼鏡を指で持ち上げながら、そう答える
「私はカンパリソーダをいただくわ」
口元にやわらかな笑みを浮かべながら女性も続ける
この二人の間に流れている空気
全くしつこくない間合い、二人の距離感に注ぐやわらかな陽射し
なんともいえない空間がすでにそこに出来上がっている
「オンザロックにしますか?」と余計な気を遣ったバーテンダー
「いや、ストレートアップで。大丈夫だよ、僕は…」
老眼鏡の奥の瞳が彼を見上げる
鮮やかな手さばきで、まずはカンパリソーダを二つ並んだ真っ白なコースターの上に
そして、良く冷やしてあったミキシンググラスに材料を注ぐ動作
このバーテンダーは話をしながらも作る準備を進めていたらしい
そして、素晴らしい手際のよさと会話の中マンハッタンが完成し
カンパリソーダの隣の空のカクテルグラスに注がれ
マラスキーノチェリーと一体になったそれが二人の前に出される

「大変お待たせいたしました」
「ありがとう」
「いただくわ」
午後の斜陽ではじける寸前の炭酸がキラキラと光り、レモンピールの香りが広がる
チェリーの赤とカンパリの赤、きれいなコントラストで並ぶ二つのグラス
えっ、まさかこの女性は色のバランスを考えて注文したのか、そんな…
いや、この女性だったらそこまで考えるかもしれない
そう納得できるくらい素敵な女性ではあるが…

二人はグラスを手にとり無言でひとくち
本当にお酒を楽しんでいるように見える
「このほろ苦さがすきなんです、カンパリソーダって…」
やさしく微笑みながらふたくち目を口に運ぶ老人は眼鏡の奥から遠いまなざしで
「マンハッタンって失恋のお酒なんだよね…」
と言いながら飲み干す
そして、最後まで微笑みながらグラスを置く彼女と氷の音
「じゃあ、ごちそうさま、楽しかった、ありがとう」
バーテンダーの心憎い演出で流れるリー・ワイリーの“マンハッタン”と共に二人は席を立つ
夕暮れ迫る海辺の街の小さなバーでほんのひと時の恋心とやさしさ
今日はお酒よりも空間に酔う心地よさとともに店を後にする
そのとき アニタ・オデイの“テンダリー”
「まったく…」

海辺の街の酒場にて

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【その手に1000円】

初老の男性と初めて訪れたその女性
カウンターには座らず、控えめにソファ席へ
男性はマンハッタン、自身はスティンガー
華やかな振る舞いと美しい所作、妖艶な容姿に奇をてらわないカクテル

ある夜、ひとりでカウンター一番端に座り、マティーニ・オンザロックを注文
言葉少なく氷の角が取れるころ、1000円札を一枚そっと置き帰宅する

3度目の夜、ひとりいつもと同じ時間
バーテンダー正面の特等席でカウンターを独占するその存在感
ドライ・マティーニ・ストレートアップを注文
音も無く静かに回るミキシンググラスの氷ときらきらと輝きながら一点で回るバースプーン
磨き上げられ、よく冷えたグラスに注がれる無色透明の液体に静かに沈むオリーブの実
儀式のような動作でひろがるレモンピールの香り
バーテンダー自身の手に集まる二人分の視線

60cmだけ離れ、決して近づかないその距離

静かに口元に近づくそのグラス
何事も無かったかのようにグラスを磨く男

二口目を静かに、美しいその仕草で口元に運び、酒の肴にオリーブを口に含む
静かに差し出され、受け取った紙ナフキンで口元からオリーブの存在が消される
60ccのそれを飲み干す三口目の動作と膝もとから出される1000円札が2枚

「ご馳走さまでした。あなたの手に1000円、いいでしょ?」
何事も無かったかのようにグラスを磨く男が一人

「スティンガー」
針や毒牙を表す英単語で、ブランデーとクレーム・ド・ミントの絶妙な組み合わせが醸し出す
甘さのなかにピリッとした刺激ある味わいの食後酒
ニューヨークを中心に世界中で愛されるカクテル

名も知らぬその女性が飲んだカクテルの意味を想うある夜に

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【眼力】

カウンターに座る男と女
笑顔がさわやかな30代の男性と妖しい微笑みをたたえた、もの静かな女性
男は常に女性だけに気づかい周囲のことは目に入らない
女性はその気づかいを受け、言葉少なく口元にかすかな笑みをたたえる
その透明感のある白い肌と栗毛色のショートヘアと切れ長の目
その眼で妖しく、遠くの何かを見つめる
ワイングラスの内側を流れ落ちるブルネロ・ディ・モンタルチーノ
室温に馴染むゴルゴンゾーラ・ピカンテ
男性が取り分けるチーズを左手で口に運ぶ
決してカウンターの上に見せることのないその右手
いつものお決まりのメニューでお決まりの時間といつもの香り
二人は一定の距離を保ち、時を楽しむ

ある夜、いつもの曜日のいつもの時間
ひとりで現れたその女性
いつものメニューをひとり分だけ、ひとりで楽しむ
はじめて垣間見る美しい右手
そして「付き添い」のいない夜
一対一の対話
吸い込まれそうなその眼から思わず目線を外し、言葉をなくす

強く何かを見つめるその眼の力
ワイングラスがよく似合う美しい左手と透き通るような白い肌
と、突然「とても強い眼力の持ち主ですね。吸い込まれてしまいそうだわ‥。」
妖しく見つめられ言葉をなくす男
その日初めて酔った姿を見せたその女性
それ以来、姿を見せなくなったその女性

数ヵ月後のある夜、静かにカウンターのいつもの席に座る、その女性
透明感のある白い肌、栗毛色のショートヘア、切れ長の目
変わらぬ視線と変わらぬ表情
変わったのはワインの銘柄と香水の香り

60㎝の距離を強く感じたある夜に

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【前略、忙しいという字は】

前略、忙しいという字は心を亡くすと書きます。

仕事が忙しいからといって、食事もままならない。
仕事が忙しいからといって、睡眠不足。
仕事が忙しいからといって、自宅に帰れない。
仕事が忙しいからといって、家族との会話がない。
いそがしいとは、「落ち着いた心がない、せわしい」という意味です。

ほんの少しだけでもホッとする時間はありますか?

朝の光に照らされた川面
昼間の公園の親子
おもちゃ屋さんの前

最近自然に微笑んだ瞬間はありますか?

静かなバーカウンター
深夜営業の珈琲店
くすんだ夜空の星
見えるかもしれない満月

最近ほんのひと時を楽しんでいますか?
忙しいからといって、時間に流されていませんか?
忙しいことを言い訳にしていませんか?

心だけではなくとても大事なものをなくしてしまいます。

くれぐれもお身体にはご自愛のほどを。
草々

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【自己管理】

ある美しい女性がこう言っていた
「私、爪の長い人は苦手、自己管理が出来ていないように思えて」
自己管理、これも簡単そうでなかなか出来ないこと
米国では肥満もその人の評価の大きなマイナス要因らしい
かといって誰も彼もがスポーツジム、ヨガスクールというのも考え物だが…
自分の指先と腹部を確認し、ほっとひと安心

人前に出るという心地よい緊張感
たとえばヒゲの手入れ、頭髪の手入れ、そしてその日の服装
「朝の忙しい時間にそんなことやっていられない」
そんな意見が聞こえてきそうだが、これも自分の時間の自己管理
全てが自己管理という言葉に当てはまるような気がする
男たちよ、気を抜くな!世の女性は厳しいぞ!

ネクタイを頭に巻き、シャツの裾がはみ出たおじさんが目の前を通り過ぎる
今日もまた銀座の夜は更けていくらしい
「人の振り見て我が振り直せ」
爪が少しだけ伸びていた

街行く男を眺めて

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【素人-しろうと-】

素人でいるという気持ち、先日ある人がこういっていた
「専門家であることを盾に世の中を渡ると、
見えなくなってしまうものがたくさんあるような気がします
最初は誰もが素人で、色々な人の助けと自己研鑽で育っていくのに、
一旦専門の域に足を踏み入れてしまうと、人はそのことを忘れてしまいがちのようです」
すなわち、初心忘るべからず
いや、そうではないと思った
名刺の肩書き、役職、仕事の内容、そういったものの上に胡坐を掻いている者
ひとつのことにしか気が回らず、自分中心の人間関係図しか頭に入っていない者
人にはそれぞれ得意分野があり、それによってこの社会が成り立っている事実もある
とはいってもそれだけで良いのだろうか?今痛切に感じている
初心、人間社会に出た頃の気持ち、熱い想い、そして現在までの過程、そしてその人生
そういったものがあって初めて公私共に人と接することが出来るのではないでしょうか
いま私が一番ためらうこと、それは自分の名刺をお渡しするそのときです
その肩書きしか見ないもの、その肩書きがあるから丁重に扱われ、
利用価値の高い名刺としてファイリング
何もないと軽くあしらわれ、名刺を持たない人は記憶にも残らない
名刺ホルダーにも入らない
そして忘却の彼方へ

相対しているのは人と人です、「素人」という文字は「素の人」と書きます
素のままの人間として目の前の相手と接しているか、その相手を真正面から見ているか、

さまざまな人との関係で回っているこの世の中、本音と建前双方があるとはいえ
最後に残るのは名刺ホルダーでも顧客リストでもそのファイルでもなく
その人そのものであると、私は思います

名刺のあり方に一考した日に

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