2月   2012  

【栗岩稔の店】

街が動き出し、人を迎え入れる準備をしているころ。そう、それは午前八時。
人が安息の地から戦いの地へと流れ入るその時。

都会の片隅に静かに佇む栗岩稔の店。
朝九時、すでに人を迎え入れる準備が整うその店内。
バーカウンターのような趣きながら、一見コンシェルジュカウンターのようにも見えるそこに、
男は始まりの朝を感じながら、穏やかに、静かに今日という日の始まりを待つ。

「おはようございます」
「おっ、おはよう。今日もよろしくな」
少し眠たげな疲れた面持ちで答える

「コーヒーで?朝食は摂られましたか?」
「あー、ほら、夕べさ、ここのサロンで割りと遅かっただろ。酒の量はいつもより少なかったけどな。
でも、何だか起きぬけは食欲無くてさ…。あのパンとスープ、ある?」
「もちろんですよ。少々お待ちください」

その男の前に整然と用意される、磨き上げられたカトラリーと純白のナフキン
少し間をおいて、毎朝焼かれる温かなパンと季節感あふれる温かなスープがそれに続く
「あー、身体が目を覚ますね。今日が始まるって感じだね」
穏やかに微笑みながら、静かに食し終わる。
何気なく片付けられた男の前に豊かな香りをたたえたコーヒーが物音ひとつなく差し出される

「やっぱり旨いねー。頭も働き出したぞ」
熱が冷め切らず湯気だけが残る空のコーヒーカップ

「よしっ、今日もいってくるよ。あっ、そうだ。今月末に公の夜会があるんだけどさ、
その相談に今晩サロンに寄るよ。そうだな、九時すぎちゃうかな。
なんとかって言うドレスコードやら葉巻やら何だか俺には難しくてさ。よろしく」
「かしこまりました。いってらっしゃい」

入れ替わりのようにいつもの席に着く美しい女性
「おはよ」
「おはようございます」
「今日はコーヒーだけにしようかな」
「かしこまりました」
「あー、そういえばあの小さな看板って何? 前から気にかかっていたのよね」
「あちらですか?あれはクラブの看板です」
「クラブ? それって会員制ってこと?」
「えー、そうです」
「ふーん、今度ゆっくり聞かせて。早く美味しいコーヒー飲みたいわ」
「少々お待ちを」

「ごちそうさま。時間ギリギリだったけれど、寄ってよかったわ。いってきます」
「いってらっしゃい」
「はーい、じゃあ後で」

たった四席しかないそれぞれの席に、それぞれのいつもの場所といつもの時間が流れる
それぞれの一日の始まりを見送った、ある日の朝十時

午前十一時
「こんにちは」
「あのー、ランチとかって無いんですか?あっ、こんにちは」
「申し訳ございませんが、こちらでは、ご用意しておりません」
「あー、そうですか。感じが良い店だったので、こちらで何か食べられればと思って」
「ありがとうございます。こちらで、ご用意しているのは自宅で朝食を食べそびれた人のための
美味しいパンとスープが五人分と、お昼にごはんをゆっくり食べられずに、
もうひとがんばりするために小腹が空いた人のための赤と緑のパスタだけですね」
「それは今、食べられないんですか?」
「午後三時からになりますね、申し訳ないのですが」
「そうですか…、じゃあ、また来てみます」
「お待ちいたしております。あっ、お昼ご飯ぐらいは、ゆっくり摂らないと午後戦えませんよ。
美味しいのは当たり前ですけど、プロの料理人が作るちゃんとしたご飯を食べてください」
「はい!いってきます。あとでコーヒーをいただきにきますね」
「いってらっしゃい」

午後十二時
静かに読書をする人
美味しいコーヒーと潮の香り一杯の小ぶりのクッキーで時の流れを楽しむ人
店内に流れる季節感あふれる音楽で休息する人

それぞれのつかの間の休息の時が終わる午後一時

午後三時
今となっては懐かしい黒電話のベルが鳴る
「はい、栗岩稔でございます」
「Kですが」途切れ途切れの携帯電話が続く
「クラブを利用したいのですが」
「申し訳ございませんが、ただ今、おひとりの男性がご利用中でして、
原則一組しか利用いただけないのですが」
「いえ、今ではなくて明日の夜なのですが」
「早合点ですね。失礼いたしました。明日は、午後九時からはご予約をいただいておりませんので、
そのお時間でしたらご利用いただけますが」
「あー、ちょうど良かった。明日商談から流れて接待のような会食があって…。
その後でゆっくり仕事抜きの男同士の話をしたいと思っていたんです」
「かしこまりました。会食のお食事内容はどのような感じですか?その方の酒の好みはどのような?
または、あまり飲まれないとか…。あとKさんはいろいろな音楽がお好きでしたよね。葉巻は?」
「そこまでしてくださるんですか?」
「当たり前のことでございます。一年ご利用の会費をお預かりしているのですから、
その方のための時間を演出する黒子が私の役目です」
「ありがとうございます。そういえばその際の飲食代はどのくらい用意すれば良いでしょうか?
すみません、入会して初めての利用で何もわかっていなくて」
「飲食代もすべて含んでおりますよ。Kさんがここで過ごされるすべての時間の対価ですから。」
「そうなんですね、ありがとうございます。じゃあ、他の利用は別料金ですよね。カウンターのほうとか。
すみません、質問ばかりで」
「いえいえ、朝から晩まで、いつもご自由にご利用いただけます。お一人同伴分も含んでおります」
「そうですか。朝九時から夜は何時まででしたっけ? あっ、また質問ですね。すみません」
「店の原則は今日という一日の終わり、深夜零時までですが、クラブはその限りではありませんよ。
私の説明不足で申し訳ございませんが事前にご連絡をいただければ対応させていただきます」
「ありがとうございます。それでは明日はすべてお任せいたしますので、よろしくお願いいたします。
あと、今度ひとりで行ったときに、葉巻のこととかJAZZのこととか話しを聞かせてくださいね」
「かしこまりました。ありがとうございます」

午後四時
「あー、お腹空いちゃったわ」
「またですか。だめですよ。朝だって食べてないんですよね。ちゃんと食べなきゃ、戦えませんよ」
「はい、はい。赤いパスタちょうだい。それとワイン、と言いたいところだけど、
これからまた人に会わなきゃいけないし…。何か美味しいドリンク作ってくれる?」
「はい、はい。少々お待ちください」
「そういえば、クラブの話だけど、一年分の会費の支払だったわね?」
「はい。でも、月々の会費という形でも承っておりますが、一括のほうがお得かと…。」
「ふーん、これから人と会う機会が増えるし、いろいろ相談出来るし。良い時間を作ってくれるしね。」
「まぁ、ご検討ください」
「そうね」
「あっ、でもここでの名刺交換は禁止ですよ」
「何故?」
「それは仕事中にして欲しいからです、もちろんビジネスユースしていただいて良いのですが…。
私の勝手な想いですが、肩書きを外して人対人で接してほしいんですよね、ここでは。
世の中に多いじゃないですか、名刺に話しかけてるような人って。何だか違うなって…」
「なるほど、あなたらしいわね。よし、やっぱり入会しよ。入会、でいいのかな?」
「決断が早いですね。そういう部分もあったり、自身を磨いているから、輝いて見えるんでしょうね。
はい、おまたせです」
「相変わらず、お上手ね。いただきまーす」

「あー、おいしかった。おいくら?」
「ちょうど1000円ですね」
「飲み物も作ってもらったのに?何だか良いわね、小銭が返ってこないのも。それも作戦?」
「まぁ、まぁ…。いってらっしゃい!」
「ごちそうさま、いってきます。って今日はもう来れないわ。また明日ね。とりあえず今日もありがと」
「こちらこそ、ありがとうございます」

午後十時
「わりぃ、わりぃ。遅くなっちゃったよ」
「お帰りなさい。おつかれさまでした」
「でさー、この会なんだけど。例の」
「あー、このドレスコードですか。あー、シガーもありますね」
「そうんだよ。俺ってほら苦手じゃん。そういうの」
「わかりました。服装については、まだ時間がありますから、来週ご自宅にお邪魔して
ワードローブを確認させてください。それを見て決めましょう。足りないものあったら私が手配しますよ」
「ホント?なんか買わせようとしてない?」

「いえいえ、お手伝いをするだけです。今あるものの中で揃えてみて、
足りないものというか、礼儀として必要なものは揃えておかないといけませんよね。
社会的立場を考えますと…」
「そうだな。よし、わかった。よろしくな」
「それでは、今日は葉巻をやってみますか?」
「そうだね」
「あっ、そういえば。靴磨きもしましょうね。時間のあるときにお預かりして手配しておきますよ」
「悪いね」
「いえいえ。お気になさらず」
「そういえば、旨いねこの水割り」
「それがホントの水割りですよ」
「そうか。バーテンダーだもんな。でもさ、お前何屋っていうのかね」
「何でしょうね。何屋でしょうかね…。栗岩稔ですかね」
「ふーん、お前が商品か…」
「言いすぎですね。失礼いたしました」
「でも、良いんじゃない。そこがまた。」

今日という一日が終わる 午前零時
静かにグラスを磨き上げるバーテンダー
静かにウツワを磨き上げるコンシェルジュ
静かにトビラを閉める「sowhat」

平成二十四年 穏やかな春の日に初夏を想い
栗岩稔

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